忍者ブログ

毒親化する社会に抗う映画感想ブログ

この毒親化した社会では社会の構成員(映画の作り手を含む)が毒親みたいな人で占められた結果、「毒親映画」と評される作品以外にも毒親みたいな映画に遭遇して苦しんだり、 逆に「どうせ家族愛を過剰に美化する毒親映画だろう」と避けていた映画が実は違う、という事も起こりえます。

[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

『すずめの戸締り』…神様の力を借りて流行の「毒親」描写いれてみましたアニメ映画

衝撃的なセリフを入れれば受けると考えた監督の下心とウケ狙いが胸糞なので毒親サバイバーにはお勧めできません。

主人公のすずめは宮崎県の漁村で暮らしているが、ある日、ちょいと年上で長髪の頃のキムタクに似た「地震しずめ師」のイケメンと、猫の姿をした子供の神様に出会う。
しかし長髪イケメンは、すずめを独占したい子供の神様の恨みを買って幼児用の椅子に変えられてしまい、日本各地に襲い掛かる大地震の危機を防ぐために東奔西走できなくなる。
すずめは同居する唯一の家族の叔母さんが心配性でうざかったので、えー?! えー?! を連発しながらも日本列島を救うためにイケメン椅子と防災の旅に出る。。。

心配性の叔母は当然すずめを追いかける。旅の途中で「うちの子になる?」と子供の神様に軽率な発言をしていた事がバレて、今度はすずめが大人の神様の怒りを買い、
叔母がこれまで「少しはそう思う事もあったけど、そのつど打ち消してきたドス黒い気持ちを凝縮して、すずめに投げつける」という天罰を下される。

「アンタなんか生まなきゃ良かった」

・・・これはもう、色々な作品で使い倒されてきた毒親の定番セリフであり、しかも叔母はすずめを産んでいないので本作『すずめの戸締り』では使えない。
だから新海誠監督は

「アンタなんか引き取るんじゃなかった」

に変えて、自身の創作の才能にドヤ顔だったに違いない。
毒親以上に破壊力のある、毒叔母の台詞を考えられる新海さんは子持ちだ。子供さんが心配だ。
これとは真逆のジブリ映画『思い出のマーニー』を観て毒抜きしたとしても心配だ。

主人公すずめぐらいの高校生にもなれば、子供はコウノトリが運んでこない、キャベツ畑で採れない事は知っている。
だから「あんたなんか産まなきゃ良かった」に対しては
「じゃぁ何で〇ックスしたの?」と切り返せる。

ところが、「あんたなんか引き取るんじゃなかった」は、すずめを孤児院に預ける、他の親戚に押し付ける事も出来たので、
「じゃぁ何で〇ックスしたの?」と切り返すことは不可能で、身寄りのない子供にとって、すさまじく強力な呪いの言葉になる。


こんなセリフをキャラに言わせる新海監督は毒親サバイバーではないだろうし、
具象画が上手な事を子供の頃から褒められてきて自己肯定感も高いだろうし
絵が上手=繊細だと自他ともに思い込んでいるだろうし、
「俺は繊細だバイアス」によって、毒親サバイバーの存在は無視するだろうし、
毒親サバイバーの存在に気づいても心を痛めない人だろう。

ドヤ顔で「あんたなんか引き取るんじゃなかった」というセリフをつむぐ新海監督には
「こんな映画、観るんじゃなかった」と返すほかにない。


「あんたなんか引き取るんじゃなかった」という破壊的なセリフがあったのに、あれは神様に取り憑かれて言わされたのよゴメンネ、で解決してしまい
(これは握手の儀式さえすれば、どんなイジメの被害者・加害者も仲直りできる!と信じ切っている一部の毒教師と同じに見える・・・)
誰かに「おかえり」「ただいま」と言えるようになった!良かった!・・・という強引なハッピーエンドにも反吐が出る。

今の自分はこんなに元気で幸せだから大丈夫だよ、と高校生のすずめが、泣きじゃくっている小児のすずめに、謎の空間で話しかける。
すずめが、明るい高校生の自分と、泣きじゃくっている幼児の自分とで解離性障害の多重人格で苦しんでいるなら、そういうシーンにも意味が有ろうが、そんなものは一切描かれていない。
ここでも、今も後遺症に苦しんでいる毒親サバイバーに盛大に喧嘩を売っている。

今生きている大人の全員が「今は大丈夫、今は幸せ」と言えると思っているのか?
なんて薄情なお花畑の思考だろう。

作品作りの労力を軽くするために世界の一部をつまみ食いしてキレイな背景がで誤魔化す監督さんだなと思う。
これまでの新海誠作品では、主人公たる少年少女の家族が描かれる事は少なかったが、
こんな毒親サバイバー殺しの親子関係しか描けないのなら、その狭い世界観で色々と不自然と言われようが、新海監督が親子関係を描かない事はベターな選択だったと言えるだろう。。。
 
PR

コメント