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大友克洋の漫画『童夢』にヒントを得た(団地に住む子供達の超能力ホラー)北欧4か国合作のノルウェー語の映画。
登場する子供達の親達にそれぞれ毒親の傾向があり、毒親度が強いほど授かっている超能力が強力かつ凶悪な印象。
しかし本作の主人公の女児には超能力は無い。
では主人公の親が毒親でないかと言われれると怪しく、夫婦円満で優しくて話の通じる両親だが、この家庭が抱えている事情によって主人公に対して毒親的になってしまう・・・感じである。
主人公の姉は自閉症で言葉によるコミュニケーションが成立せずに、常に「あー」とか「うー」と発声している。
両親は主人公に「過度な負担」が生じないよう意識して努めている様子ではあるものの、
障害を持つ姉のめんどうを妹に任せている部分もあり、
主人公はヤングケアラーの一歩手前の状態で、少し心が荒み、心を病みつつあるように見える。
また母親は看護師であり「医療、心身の障害、心のケアについては医療関係者でない人間よりは知っている」という自信が油断を生んでしまう事も考えられる。
それは、知り合った男児が小動物を団地の高層階から落としてしまう行為を笑顔で止めなかった事にも表れている(しかし、死んでないからとどめを刺そうと涼しげな男児に対しては主人公の女児は嫌悪感を抱いている)
凶悪な男児の親がいちばん子供へきつく接しており、これが究極にして爽快感の無い復讐に発展してしまう。
顔に「模様」があり、人の心が読める優しい女児の母親も、やや情緒が不安定で、後に心の病であると明かされる。
毒親サバイバー的にキツイ場面は、「医学的に言語能力を獲得する事は永久に有り得ない」はずだった主人公の姉が、
顔に模様がある女児の超能力で片言の言葉を話すシーンであろう。
両親が歓喜するのは想像に難くないし、これが健常な赤ちゃんとのやり取りであれば、毒親とは無縁な世間の多数の観客達の目に微笑ましく映る、心温まるアットホームな場面という事になる。
しかし実際は、これを言ってごらん、あれを言ってごらん、と期待を膨らませる両親の欲求をテレパシーでくみ取った、顔に模様のある女児が気を遣ってしゃべらせているのである。長女の奇蹟的な回復に期待を寄せる両親の姿が、子供に過度な期待を押し付ける毒親の姿とピッタリ重なって見えてしまう。
なにせ長女は自分の能力を超えた医学的に不可能な事をしているのだから・・・
強力かつ凶悪な超能力を持つ男児にひけをとらないくらい、自閉症である主人公の姉が持っている超能力が「本領」を発揮する。
私は「子供達の親の毒親度合いの高さに比例して、子供が持っている超能力も強力になる傾向」と前述したが、それは少し違うかもしれない事が明らかになっていく。
子供達の超能力の原動は、他人から嘲笑され、自分の心を理解されず濁ってしまった心の痛みの深さ具合に比例しているかも知れない。毒親的な振る舞い・虐待もそこに含まれる。
自閉症である主人公の姉が、最も親の毒親度合いが高くて強力かつ凶悪な超能力を持つ男児に対抗しうる能力を獲得したのは、「いつも『あー』とか『うー」とか奇声を発しているヘンテコで可哀想な子供」と通行人(社会!!!毒親化した社会)から蔑まれ、
両親からさえも「この子は普通の人生を送れない」と諦められている心の痛みを十何年も抱え続けて来たからなのだと思う。
ホラー映画なので後味の悪さやツッコミどころもあるのだが、生死の境を共にした体験からくる姉妹の絆・・・
毒親サバイバーとしては親子の絆を声高に押し付けられるよりはマシであるが、
いっぽうで毒兄・毒弟・毒姉・毒妹サバイバーの方がどう受け取るかが心配な映画である。
この映画のようにスマホのある現代ではなく、大正時代を舞台にした『鬼滅の刃』は、毒親・毒兄弟サバイバーの方々の心を痛めない工夫は流石だと思います。
あのミニシアター発の大ヒット映画『カメラを止めるな』よりはホラー描写が当然キツイものの(一般映画がグロテスクさを避けるため描かない部分を、あえて忠実に描いている)
見た目のグロテスクさよりも、心理面での恐怖を強調する映画で、描写がライトなホラー映画入門?としてお勧めできるかも知れません。
少なくとも「ホラー映画祭り」の告知として上映間にバンバン流された本格ホラー映画たちに比べたら全然ホラー描写は軽いです。PR -
舞台はサイパン島が陥落し(1944年・昭和19年)、
そこを拠点に敵さんが日本本土への空襲を開始し、都市の富裕層や子供達が、敵機の攻撃が無さそうな田舎へ疎開を始めなければならない太平洋戦争の末期。
主人公の一家は、軍需工場と共に田舎へ疎開。
社長である父親は「ダットサンで学校へ乗り付ける奴はいないだろう!」と得意げで、
当時は上流階級しか保有していなかった自家用車で投稿初日、校庭へ乗り付け子供を学校へ送る。
しかし主人公は父親と違って経済力や権威をかさに威張ったりしない大人しい少年なので
「日本社会において目立つ者・出る杭は打たれる」事を知っているから乗り気でなかったし、案の定ルサンチマンを抱いた田舎の悪童たちにボコボコにされる。
「道で転んで」側頭が禿げるレベルの大出血の怪我をした息子を見た父親は「誰がお前にこんな事をした!!」と激高する。
これは息子思いの無毒な父親ではなく「俺の所有物が汚され自分のプライドが傷ついた」事に怒り狂っている毒親(毒父)の臭いがする。
主人公の実母は少し前に不慮の事故で死去していて、父親は再婚したばかり。
主人公は疎開先の駅前で継母と落ち合う。
継母=新しいお母さんを主人公は「お母さん」と呼ばずファーストネームで呼ぶため、
打ち解けているようには見えず(毒父・毒母に限らず再婚相手・継母との関係は難しい)
そもそも毒親っぽい父親が息子の意見を聞かず勝手に結婚したと思われる。
なお戦前の「家父長制」の下では、親が子供の意見を聞かない事は当たり前の事と思われる。
サングラス姿の有名タレントが年末に「来年はどんな年になる?」と聞かれ「新しい戦前かもね」と発言して話題になったが、
毒親を量産する家父長制のあった戦前と、社会全体が毒親化している今の状況は確かに似ていると思うので、
あの大御所タレントは洒落にならない皮肉を言ったと感じる。
初出の場面で、継母は主人公に妊娠中のお腹を触らせ、「貴方の弟よ、よろしくね」的な事を言う。
多感な少年に対しては無神経な振る舞いという気もする。
恋愛は似たもの同士が惹かれ合うというし、似たもの夫婦・・・
毒父的な男に毒母的な女がくっつくのは道理である。
後に誰かが「ジゴクと呼ぶ場所」で継母は主人公に「貴方は私の事が嫌いなんでしょ!!」(だって私のこと「お母さん」って呼んでくれないじゃない)と毒をぶちまける。
子供が親の愛情を確かめために親にそれを言う場合は良いと思うが、その逆はマズイと思う。
「家長(主人公の父親)の判断は絶対」という戦前の家父長制に乗っかっている感じで、身勝手な女だな、と感じる。
いっぽうで、死んだ実母は主人公に、「昭和初期に刊行され、令和の日本でも読み継がれている、とある本」を主人公に授けていた事が本棚が崩れたときに判明する。その本を読んだ主人公は大泣きする。
毒親虐待サバイバーと思われる方が「主人公が、子供時代の親に会う話なんか観れたもんじゃない!!」と酷く傷ついているのをお見かけした事が有るが・・・
同じジブリ映画『思い出のマーニー』は、実母ではなく祖母に会う、という事で、毒親虐待サバイバーなどの方が傷つくリスクを低減していたと思う。
(そういう配慮が全くない映画作品の1つが、軽い気持ちで社会問題を描き、当事者たちを傷つける悪い癖がある細田守監督のアニメ映画『未来のミライ』である)
しかし宮崎駿は、『思い出のマーニー』のような手は使わず、「異世界のファンタジー」という舞台装置を使って、
直に実母の子供時代に会わせつつ、毒親虐待サバイバーなどの方が傷つくリスクを低減した点は流石だと思う。
毒父・毒母の要素も含めて、『君たちはどう生きるか』は性別が逆転した『千と千尋の神隠し』とも取れるが、
『千と千尋の神隠し』のような鑑賞後の勇気を貰えるような余韻は無く、
「分からない人は分からなくていい」と思いっきり突き放している感じの映画だった。
『千と千尋の神隠し』では、迷い込んだ神様の世界でドジった千尋に
「(初めて来た世界だもんね)千尋は悪くないよ。よく頑張ったね」(まさに毒親と真逆の神セリフ!!)
女を力で押さえつけて恋愛の主導権を男が握るための壁ドンではなく、
千尋を守るために覆いかぶさった壁ドンっぽいポーズ・・・などに魅了された小学生女子の間で「ハク様♡ブーム」が起きた・・・という平成の報道を記憶している。
しかし、令和の『君たちはどう生きるか』では、小学生男子の間で「あの勇敢な美少女に萌えるブーム」は起きないだろう。
お前はマザコンか! と突っ込まれたら誰も反論もできないので。。。
最初は印象最悪でも、冒険を共にして触れ合っていたら、いつの間にか友達に成れる事も・・・だから現実世界でも恐れずに友達を作ろう!?
いやいやいや・・・「お前の心臓をえぐってやる!」と叫んで、本気で殺しに来る相手とは無理でしょう。
第二次世界大戦とかで、何十年の時を経て、同じ戦場をくぐりぬけた元・兵士同士が、かつての敵国の人間と仲良くなったという美談は聞きますけど・・・
学校とかで「本気で殺しに来る相手」と友達になる、は無理。
現代のイジメでも、加害者側は軽い気持ちでも、被害者にとって加害者は「本気で殺しに来る相手」ですよ。
『君たちはどう生きるか』はイジメ被害者にも喧嘩を売りかねない映画だと感じる。
「仲直りの印として握手しろ」なんてシーンも有りますが、これは事なかれ主義のクソ教師とやっている事が同じです。
かといって、こんな教師の対応はクソだよな!という皮肉として描かれている感じもしない。
宮崎駿は観客に「貴様らは打たれ弱い。いちいち傷つくな!」って言いたいのか?
いつから宮崎駿は戦前の日本軍みたいな「精神至上主義」の人になったんだ?
それまでの作品で反戦や平和を訴えていたのとは、ずいぶん真逆ですね。。。
昔は『金八先生』で管理教育に反対した武田鉄矢が、
いつの間にか口うるさいネトウ・・・保守おじぃちゃんになったのと同じ道を、
昔は「憎しみよりも友愛を」とナウシカ(漫画版)に言わせた宮崎監督もたどるのでしょうか。
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衝撃的なセリフを入れれば受けると考えた監督の下心とウケ狙いが胸糞なので毒親サバイバーにはお勧めできません。
主人公のすずめは宮崎県の漁村で暮らしているが、ある日、ちょいと年上で長髪の頃のキムタクに似た「地震しずめ師」のイケメンと、猫の姿をした子供の神様に出会う。
しかし長髪イケメンは、すずめを独占したい子供の神様の恨みを買って幼児用の椅子に変えられてしまい、日本各地に襲い掛かる大地震の危機を防ぐために東奔西走できなくなる。
すずめは同居する唯一の家族の叔母さんが心配性でうざかったので、えー?! えー?! を連発しながらも日本列島を救うためにイケメン椅子と防災の旅に出る。。。
心配性の叔母は当然すずめを追いかける。旅の途中で「うちの子になる?」と子供の神様に軽率な発言をしていた事がバレて、今度はすずめが大人の神様の怒りを買い、
叔母がこれまで「少しはそう思う事もあったけど、そのつど打ち消してきたドス黒い気持ちを凝縮して、すずめに投げつける」という天罰を下される。
「アンタなんか生まなきゃ良かった」
・・・これはもう、色々な作品で使い倒されてきた毒親の定番セリフであり、しかも叔母はすずめを産んでいないので本作『すずめの戸締り』では使えない。
だから新海誠監督は
「アンタなんか引き取るんじゃなかった」
に変えて、自身の創作の才能にドヤ顔だったに違いない。
毒親以上に破壊力のある、毒叔母の台詞を考えられる新海さんは子持ちだ。子供さんが心配だ。
これとは真逆のジブリ映画『思い出のマーニー』を観て毒抜きしたとしても心配だ。
主人公すずめぐらいの高校生にもなれば、子供はコウノトリが運んでこない、キャベツ畑で採れない事は知っている。
だから「あんたなんか産まなきゃ良かった」に対しては
「じゃぁ何で〇ックスしたの?」と切り返せる。
ところが、「あんたなんか引き取るんじゃなかった」は、すずめを孤児院に預ける、他の親戚に押し付ける事も出来たので、
「じゃぁ何で〇ックスしたの?」と切り返すことは不可能で、身寄りのない子供にとって、すさまじく強力な呪いの言葉になる。
こんなセリフをキャラに言わせる新海監督は毒親サバイバーではないだろうし、
具象画が上手な事を子供の頃から褒められてきて自己肯定感も高いだろうし
絵が上手=繊細だと自他ともに思い込んでいるだろうし、
「俺は繊細だバイアス」によって、毒親サバイバーの存在は無視するだろうし、
毒親サバイバーの存在に気づいても心を痛めない人だろう。
ドヤ顔で「あんたなんか引き取るんじゃなかった」というセリフをつむぐ新海監督には
「こんな映画、観るんじゃなかった」と返すほかにない。
「あんたなんか引き取るんじゃなかった」という破壊的なセリフがあったのに、あれは神様に取り憑かれて言わされたのよゴメンネ、で解決してしまい
(これは握手の儀式さえすれば、どんなイジメの被害者・加害者も仲直りできる!と信じ切っている一部の毒教師と同じに見える・・・)
誰かに「おかえり」「ただいま」と言えるようになった!良かった!・・・という強引なハッピーエンドにも反吐が出る。
今の自分はこんなに元気で幸せだから大丈夫だよ、と高校生のすずめが、泣きじゃくっている小児のすずめに、謎の空間で話しかける。
すずめが、明るい高校生の自分と、泣きじゃくっている幼児の自分とで解離性障害の多重人格で苦しんでいるなら、そういうシーンにも意味が有ろうが、そんなものは一切描かれていない。
ここでも、今も後遺症に苦しんでいる毒親サバイバーに盛大に喧嘩を売っている。
今生きている大人の全員が「今は大丈夫、今は幸せ」と言えると思っているのか?
作品作りの労力を軽くするために世界の一部をつまみ食いしてキレイな背景がで誤魔化す監督さんだなと思う。
なんて薄情なお花畑の思考だろう。
これまでの新海誠作品では、主人公たる少年少女の家族が描かれる事は少なかったが、
こんな毒親サバイバー殺しの親子関係しか描けないのなら、その狭い世界観で色々と不自然と言われようが、新海監督が親子関係を描かない事はベターな選択だったと言えるだろう。。。